めでたい

玄侑 宗久さん、「釈迦に説法」 (新潮社)の中でのお話です。

  • 「めでたい」というのは、まるで形容詞みたいに使われ、白いバラと赤いバラがあるように、めでたい事柄とめでたくない事柄があるみたいに思われているが、この言葉は本来「愛でる」という動詞に「願望」の助動詞「たい」がくっついたものだという説もある。だから本人が「愛でる」という行為をしたいと思えばめでたくなるし、したくなければどんな事態もめでたくはないのである。その「愛でたい」という気持ちを、わざわざ言葉に出して表現することを、日本では古来「ことほぐ(言祝ぐ)」と云う。寿は、その連体形である「ことほぎ」が更に訛ったものだ。今の自分の生活、あるいは自分のこれまでの来歴を、そのまま肯定的な言葉で表現する「言祝ぎ」が「いのちながし」とも読む「寿」で代用されている。ということは、そうすることが長寿にもつながると考えられた証拠だろう。禅ではこの「言祝ぎ」が重視される。なによりもまず自分の生まれた場所や親は選べなかったわけだから、そこから言祝いでしまうのである。この町に生まれて佳かった、この両親のもとに生まれて佳かった、そこから始まって「今日は佳い台風だ」「今の私は素敵な年齢だ」「歯が痛いのもしみじみして味わい深い」などと、自分の立っている足許の状況を全て肯定していくのである。むろん文句をいえば状況が変るというなら、言ったらいい。しかし大抵の状況は、文句を言うと更にその不満が強く意識されるだけで、あまり意味がない。だから言っても仕方がない文句は言わず、言祝ぐことで「今」を安定させる。それが禅的な意味での「足るを知る」ということだ。

いつも愛で愛で宣言。
目の前にあることを愛でることからはじめたいと思います。
そして、めでたい自分でありたい。
全ては、心のままに。。。